仕事の話になるが、最近、みんながしゃべっていることが理解できなくなってきた。
これはおれの理解力の問題ではなく(と思いたいが)、大抵はしゃべっている本人もあまり理解していないケースが多い。
悪文ならぬ、悪話とでもいえばよいのか。
「反動文教政策といわれている教育に対する国家介入」とか(……)といった調子で展開する文章を例に引く。そして、一つ一つのことばが具体的にどんな事象に対応するのか、一度でも考えたことがあるのだろうか、と疑いたくなるような「ことばの遊戯」と論評する。
出典:中村 明『悪文』P35
─── なんでそんなことが起こるのか考えたが、おそらく「生成AI に出してもらった大量の情報を、咀嚼もせずに全部話そうとするから」なのだろう。
理解できていないものは要約ができない。
シンプルに情報量も多くなるのだろう。
全部を伝えようとすると、そりゃ早口にもなる。
「早口であるだけで敬語の価値は下がる」というのはよくいわれる話だが、どうも早口であるだけで、内容の価値が落ちてしまうような気がする。
情報量は増えたが、別にひとの器は増えていない。
そんな量はとても納まりきらない。どうも、ひとが理解できる量を遥かに超えている気がする。速度があがったとして、ひとがそれに追いつけていない気がする。
思いやりのない、オーディエンスを置いてけぼりにするひととの会話はつかれる。
はじめから聞く気がなくなるのだから、内容が 理解できる/できない 以前の問題だ。シンプルに「彼は話すのがヘタ」という評価になるだろう。
ただ、自分のクセに気がつくのは難しい。
早口になっていることは、誰かから指摘されないと気がつけないだろう。別におれも指摘はしない。早口だから「悪」だというのは言いがかりに近い。ただの好みな気もする。
だけど、おれはしゃべるのが早いひとの発表を聞くと、やはりゆっくり話すひとのほうが余裕を感じる。落ちついて見えるし、どこか強者感もあって、「この話は信用できそうだ」と思ってしまう。
単純な発表スキルの話かもしれないが、「ゆっくりしゃべる」というのは、「優しさ」の観点でも大事なポイントだと思う。
ひとのふり見てハッとする。
きっとおれも早口になっているに違いない。「あのひとと話すとつかれる」と思われてたら嫌だなぁと思うし、どうもコミュニケーションをサボると、人生がうまくゆかなくなる気がする。
これは忘れずにいたい。