社会にケンカを売り、反発されることで価値が生まれるものがある。
風刺画は分かりやすい。あれは社会に対して「正しさ」を問いかけたり、現代の価値観をひっくり返したり、誰かを不快にさせるものだ。
いまは、現代アートがその役割を担っているかなーと思っている。
で、おれは「発信」もまた、そういうモノになってきたのではないかと考えている。すべての発信がそうとはいわない。
役にたつ情報や、楽しませる情報もある。
ただ、そうではないもの、「世の中にメッセージを投げかける発信」には、どうしても反発がついてくるのだ。
まぁ、そういう発信をするからには、反発が起こらなければ意味がない ─── ともいえるのかもしれないが。
(……)現代アートの役割というものを考えると、みんなから批判もされないようなすごく穏便なものをつくったところで意味がないと思うんですね。こうやって論争になって撤去されるとか、世間で話題になることを含めて現代アートの役割だと思います。
現代アートとして考えてみるならば、(…)あえてこうやって社会にケンカを売るような作品をつくったということは意味があると思います。
出典:日テレNEWS.「現代アートは社会にケンカを売るのが仕事」(2018年9月20日)- https://news.ntv.co.jp/category/society/404606
反発が起こると、議論がうまれる。
議論がうまれるテーマは「いいテーマ」だとおれは思う。極端なものを例にあげるが、「ひとの幸せとはなにか?」みたいな議題のことだ。
これには正解がない。ひとによって答えは違う。
だから議論がうまれるし、その議論は面白い。
そもそも、「反発」がないとテーマにならない。
みんなが肯定するものは、議論されずに終わる。そんな発信は、そもそもコンテンツとして成立していないのではないだろうか。議論がなければ、拡散も共有もされない。
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最近、世の中をにぎわせている論争がある。
「みい山(みいちゃんと山田さん)」だ。
どんな論争かをカンタンにいうと、
①障害や社会的弱者を描いた作品を、娯楽として消費してよいのか。
②表現が現実の偏見に影響するとしたら、誰がどこまで責任を負うのか。
という議論だ。
おれは議論そのものは正直どうでもいい。あまり興味がない。
この件で、おれが気になるのは「問題の本質を理解しないまま、表面的で幼稚な批判をしてしまうひと」が多い点にある。
びっくりすることに、自分では言語化もせずに「なんとなく嫌い」「なんかムカつく」でコンテンツを批判するひとがいくらでもいるのだ。
「嫌な気持ちになるひとがいるかもしれない」という大義名分をかかげているタイプは救えない。石を投げること自体が、いつの間にか正義になっているのだろう。
「正義」の名のもとに……社会の常識からはみ出したひとを徹底的に叩いたり、誹謗中傷をしたりする。だって相手が悪いのだから、それくらいされても仕方がないよね。
ただ、コンテンツを批判するだけなら簡単だ。(正しい批判とは言っていない。)
あらゆる理由をみつけてきては、それっぽい反例を調べて書き連ねればいい。作者の過去すべての発言を切り取り、人格を否定すればいい。SNSを遡って、発言の矛盾点をつけばいい。
そういうイジワルをすればいいのだから。
それをやるかは別として。
(問題を的確に把握し、「正しい批判」をすることはめちゃくちゃに難しい。長くなるので、気が向いたら別で書く。)
ひとつの発信が投げ込まれる。
それに誰かが反応し、別の誰かが反論する。それを見たひとがさらに反応し、派閥が生まれる。いつの間にか、最初の発信よりも、周囲で発生した「論争」のほうが大きくなっている。
これは、いまの時代の発信を考えるうえで、かなりおもしろい現象だと思う。
ひとつ「おもしろい」で済まされない問題があるとすれば、巨大に膨れた民意には、論理的な説明がいらないことだろうか。
「理由はないけど、ただ気に入らない」というだけで淘汰されてしまう。
この流れは止められないんだろうな、とおれは思う。
「みい山」論争で、おれが認識したことは、令和の発信は世の中にケンカを売ることなのかもしれないな、ということだ。
何か新しいことをいおうとすれば、誰かとぶつかる。
誰かの常識を動かそうとすれば、その常識を守りたいひとが出てくる。
まぁ、おれが作者なら、アドレナリンがドバドバかもしれない。自分が考えたテーマで大論争が起こっているのだから発信者冥利に尽きる、と思うだろうから。
自分が投げた一石が、大きな波紋を起こし、ひとに議論させる。それだけで、発信としては大成功なのではないだろうか。
ひとに議論を起こさせ、社会をも動かすそれは現代アートに似ている。
「みい山」論争は、令和のデジタルアートみたいだな、とおれは思った。