説教はみんなの前でしない、というのは一般化されている。学校教育だって、子育てだって、会社で部下を育てるのだって、同じことを言われる。
本人に個別に伝えることで、本人の自尊心を傷つけないという考慮だ。
あと、人前で叱られると、本人は「恥をかかされた」と感じることがある。それで恨まれるのだから、叱った本人にもいいことではない。
おれはふと思った。
「褒める」も、みんなの前でしないほうがいいのでは?と。
だって、誰かをほめ、そのひとの評価をあげることは、ほめられなかった誰かの評価を相対的にさげることになりかねないから。
例えば、チームでやった仕事について、上司が「今回の成果は A さんが一番よかった」とみんなの前でほめたとする。
A さんはとてもうれしい。
でも、それを聞いている B さんは、「じゃあ、俺は A さんより評価されていないってことか」と受け取る。
ほめられなかったひとが、「あいつはスゴいな、それに比べて俺は」と比較することは容易に想像がつく。これはなんかマズい気がする。
「自分と他人との差」に敏感なひとはいる。ことば選びが難しいのだが、おれの経験上、無能ほどそういう傾向にある。
次に B さんは「じゃあ、自分の評価をさげたのは誰だ!」と考える。それは誰かをほめたひと、つまり上司だと結論づけられる。
何度「あのひとはエコ贔屓をする」という愚痴を聞かされたことか。記憶は薄れても、ムッと思ったことだけは覚えているらしい。いつのまにか事実も曲げられているのに。
それで、拗ねちゃう。
「どうせ自分は評価されない」と、頑張ることそのものをやめてしまうこともある。そういうひとと一緒に仕事をするのは、本当にしんどい。
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ひとを正当に評価することは必要だ。
ただ、「ひとの前で、ひとを評価してはいけない」と、おれは思う。
「叱る」「褒める」に限った話でもない。
ちょっとした愚痴にも同じことがいえる。
顧客のことを差して「〇〇さん、連絡遅いからなぁ」などと愚痴ろうものなら、もしかしたらプロジェクトのメンバーに刺さってしまうかもしれない。
刺さった C さんが「俺も遅い自覚あるんだけど、同じように愚痴られてるのかな」と思うのは、邪推でもなんでもなく、自然なことだろう。
それで C さんの連絡速度は改善されるかもしれないが、それは「叱られた」と感じたからほかにない。結果的に C さんは成長したが、モヤッとしたものは残る。
それは、嫌味をいわれたような気になった、「あのひと苦手なんだよね」「なんか嫌味な感じがするよね」といった印象だ。
ひとの前でひとを評価すると、思わぬところで恨まれる。
そういや、昔だれかが「マネジメントの基本は、無能に優しくすること」って言っていた。そして、無能は評価されることを嫌うとも。
─── そういう点では、評価をしないというのは、チームを丸くまとめるために必要な戦略なのかもしれない。
気を付けたいが、まぁ雑談まで他のひとがどう受け取るかを考えるのは無理だ。疲弊して、こっちが鬱になってしまう。