Point 雑記

現代人に「未知」は難しいんじゃないか。

私は現代アートが好きです。

2018年の9月、「現代アートは社会にケンカを売る仕事」が話題になりました。当時、この言葉をきいて「なんて挑戦的なんだろう」とあこがれを抱いたものです。

「現代アートは社会にケンカを売る仕事」と書きました。

この像が論争を生むのはすごくわかるんです。福島イコール放射能、放射能イコール危ない、というイメージを増幅させると批判される方もたくさんいると思います。地元の人からしてみたら、福島はもう別に危険でもないのに、なぜこんな像がという批判も当然わかるんですね。

ただ一方で、現代アートの役割というものを考えると、みんなから批判もされないようなすごく穏便なものをつくったところで意味がないと思うんですね。こうやって論争になって撤去されるとか、世間で話題になることを含めて現代アートの役割だと思います。

現代アートとして考えてみるならば、(…)あえてこうやって社会にケンカを売るような作品をつくったということは意味があると思います。

出典:日テレNEWS.「現代アートは社会にケンカを売るのが仕事」(2018年9月20日)- https://news.ntv.co.jp/category/society/404606

 

現代アートや、あとは風刺なんかもそうです。社会にケンカを売れば売るほど、話題性は高まります。そういうおもしろい性質を持っています。

───人の感情(やるせない怒りや、耐え切れない悲しみ)が作品にこめられていることが分かります。「慟哭している」とでもいいましょうか、圧倒される感覚があるのです。私が現代アートに魅かれる理由です。

 

 

現代アートについて簡単に

現代アート(コンテンポラリ・アート)は未知のものです。(私は専門家ではなく、ごく一般的な立場の者ですので、あくまで参考程度にお聞きいただければ幸いです。)

  • 便器を逆さまに設置する
  • モナリザの顔にマスクをつける
  • バナナをダクトテープで壁に貼り付ける

 

現代アートとはなにか。「正解のない問い」と表現できると思います。

見る人に考えさせ、感じさせ、社会や自己と向き合わせることを目的とするものです。作品の美しさや技術よりも「コンセプト」や「問いの深さ」が重視されます。

 

Q. 現代アートって難しい、意味がわからない。
A. 正解がないのが魅力です。「よくわからない」と感じることもアートの一部です。

Q. なんでこれがアートなの?
A. コンセプトこそが作品の本体です。形よりも考え方が重要視されます。

 

ジャンルや素材も自由です。絵画・映像・インスタレーション・パフォーマンスなど多岐にわたり、無形の作品も少なくありません。

コンセプトが重要視されるため、メッセージ性が強いです。社会問題・政治・ジェンダー・アイデンティティなどをテーマにすることが多いです。

 

───で、こうしたクセを持つ現代アートを楽しむには、「未知への耐性」がなければ難しいのではないかと、最近になって思うようになったのです。

 

 

未知への耐性

以前、本の読み方についての記事の中で、「未知のことがらを読む」ためのベータ読みについて書いたことがあります。

ベータ読みは、「書いてあることが、読んでみてもわからない」───未知のことがらの文章を読む読み方です。

(…)

自分の知らないことを活字から読みとるためには、ベータ読みが必要です。すでに知っていることを読む「アルファ読み」で読もうとしても、わかるはずがないのです。

ベータ読みができれば、わからないことを読んでも、理解することができます。知見をひろめ、こころを大きくしていくことができます。ベータ読みができてこそ本当に本が読める、ということなのです。

出典:はいはいブログ.「本を読んでもバカのまま人と、そうでない人の読み方の違い。」(2025/6/1)- https://haihaiblog.com/beta-reading/

 

この「ベータ読み」という考え方は、とある書籍から借りたものですが、まぁ今はそんなことはどうでもよくって、次が重要なポイントです。

その書籍には次のようなことも書かれていました。

現代はますますこの傾向にある。アルファ読みしかできない人が多く、多くの出版社も分かりやすく、分かりやすくを意識して本を作っている。そうでないと理解されず、売れないからだ。

出典:外山 滋比古『日本語の絶対語感』大和書房(2015年)

 

なるほど。

たしかに、書店に並ぶ新書はどれも分かりやすそうで、タイトルだけ見てもつい手に取ってしまうような「あおり文句」が並んでいます。

内容もそうです。古典のように、何度もくりかえし読んではじめて理解できるような本はほとんどなくなったように思います。「難しいことは高級である」とカン違いしているアホも見かけなくなりました。

 

本が分かりやすくなることは、とてもよいことです。

ただ、現代人が「分かりやすいもの」だけを読むようになり、難しいものが読めなくなったとき、本当に「未知への耐性」が失われてしまうのではないかと思うわけです。

 

 

タイパ・コスパ重視の社会

現代は、タイムパフォーマンス・コストパフォーマンスが重要視されているために、「時間をかけて理解しようするひと」が減っています。読書百遍、韋編三絶、ゆっくりと時間をかけて理解するのはコスパが悪いのです。

 

タイパ・コスパ重視だと、現代アートをみても「で、これってどういう意味なの?」とすぐにネットで調べてしまうでしょう。

「自分がどう感じたか」「なぜそう感じたのか」を考える前にです。

そうした場合、どうなるのか。───意味を知っても「ふーん」で終わってしまいます。正解とされているものや、ほかのひとの意見を聞いても、自分の意見がないために議論ができないのです。

 

アートは、「見るひとによって感じることが違うもの」だと思います。作品のコンセプトや他人の感想を聞いて「たしかにそう感じるかも」と思うだけでは、もったいないなと感じます。

そういう理由で、作品をみて「分からないから」と興味を失ってしまう人には、あまり合わないのだろうと思ってしまうのです。「未知に対して自分で考えられない人にとって、きっと現代アートはつまらないんだろうな」と。

 

 

じっさいどうなのだろう。

最近の現代アートもまた、とても熱いです。

 

みなさんはどうでしょうか。意味がわからないから、つまらないと感じるのでしょうか。

「俺は分かるがお前は?」と、マウントを取りたいわけではありません。「つまらない」と思うひとが増えると、現代アートそのものの需要がなくなってしまうのではないかと心配しているのです。

需要がなくなってしまうと、未知の表現が失われるか、未知を武器にしてきた現代アートは別のカタチになってしまうかもしれません。「分かりやすい」作品だけが生き残るのでしょう。

 

未知に対して自分で考え、感じ、向き合おう。その気持ちがあれば、以前よりも現代アートをより楽しめるはずです。

 

以上です。

 

 

参考書籍

外山 滋比古『日本語の絶対語感』大和書房(2015年)

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