Point 文章術

動詞「~する」をやめるだけで賢くみえる。

ことばというものは、会話でうまく使いこなそうとすると相当な訓練を必要とする。しかし、文章となれば話は別で、すこしのテクニックを知るだけで格段に改善できる。

それで、次のような場面で賢くみせることが可能となる。

  • 仕事の文章
  • SNS の投稿
  • 恋人とのコミュニケーション

 

テクニックのひとつに、「"名詞 " と "動詞" の相性」がある。本稿では、文章のそれについて考えてみたい。(会話にもいえることではある)

 

使い方の乱れ - 動詞

名詞に、かたっぽしから「~する」をつけて、動詞のかわりに使うひとがいる。「お茶をする」「ご飯にする」などという表現だ。ことばに敏感なひとであれば「お茶をする」には抵抗があるかもしれない。

ただ、「お茶をする」には抵抗があるひとでも、「将棋をする」「碁をする」などは、さほどおかしいとは思わないだろう。けれど、きちんとした日本語で表現するなら ───

「将棋」は「指す」ものだし、

「碁」は「打つ」ものである。

 

また、この問題は「~する」という動詞だけにとどまらない。「見る」や「言う」といった、日常的につかう動詞にも同じことがいえる。

「弱音」は「言う」ものではなく「吐く」ものだし、

「愚痴」も「言う」ものではなく「こぼす」ものである。

 

─── このように、日本語では「"名詞" によって結びつく "動詞"」が決まっているものが、いくらでもある。

名詞と動詞には相性があるのだ。この相性を考えずに、なんにでも「する」ですませてしまったり、おかしな組み合わせをしていると、表現の幼稚さから、教養の浅さを疑われるだろう。(意味は通じるかもしれないが)

 

 

賢く見せるには

この "名詞" と "動詞 "の相性感覚は、語彙力によって実現する。

語彙を豊富もち、「難しいことを分かりやすく説明できるひと」が真に賢いひとだとされていることがよく言われが、これは一般化してしまってもよいだろう。

 

そもそも、「知的能力の高さ」は「語彙の豊富さ」と大きな関係があるそうだ。

ベネッセの調査では、「語彙力」が高い高校生は「思考力」等も高い、との示唆がある。「語彙力」を学力の要素として評価する手法は、大学のあいだで広がりつつあるともいう。

出典:Between 情報サイト.「「語彙力」が高い高校生は「思考力」等も高いとの示唆―ベネッセ調査」(2017/10)- http://between.shinken-ad.co.jp/hu/2017/10/goiryoku.html

 

イギリスやアメリカでは、「語彙の豊かさと、社会的成功には相関がある」という研究がよく引用される。語彙が豊富であれば:

  • 状況を正確に説明する → 誤解を減らす
  • 論理を整理して伝える → 知的に見える
  • 感情に合った表現を選ぶ → 関係を円滑にする

といった効果があるので、「成功しやすい」というわけだ。そして、大切なのは、その語彙を使って適切に説得する力であるという。

 

『頭のいい人が話す前に考えていること』の著者、安達 裕哉さんは、単純化されているほど説得力を感じると述べる。

具体的には

・簡単な言葉で間に合う時に、難解な言葉を使わない

・文章をシンプルにし、覚えやすくする

などの工夫です。

単純化すれば、人間は「読むのが簡単なほど、説得力を感じる」ということになります。

「説得力を高めるためには、読みやすくしましょう」という言葉は、以上の理由から真です。

出典:Tinect.「「保育園落ちた日本死ね!!!」からわかる、文章の説得力の正体。」(2022/12/08)- https://tinect.jp/blog/contents-persuasive-power-of-text/

 

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これらに共通するのは、「認知負担をできるだけ減らす」という原則だ。説得力のある、賢いと思われる文章を書くには、受け手に推論を強いるのではなく、 "理解のしやすさ" を武器にすることが正当なのだ。

 

この感覚を養う最良の方法は、読書を重ねることだ。もしくは新聞を読む、でもよいと思う。ようは、出版社や新聞社が出している文章─── プロの添削が入った文章を読めばいい。

ただ、その訓練が必須かと言われたらそうではない。冒頭で述べたように、文章となれば、このテクニックは知っておくだけでいいからだ。「気を付ける」だけで改善できることなのだ。

語彙がなければ辞書でも引けばいい。類義語を生成 AI に聞いて、ピッタリのものを探すのもありだ。それくらいの努力はしようじゃないか。

 

 

多義性も避ける

また、このように動詞にこだわり出すと、次に「いろいろな意味をもつ動詞」が気になってくる。いわゆる「多義性」である。

 

「新聞を見る」

─── という文があったとする。

じっくりじっくり新聞の紙面を読むのも、パラパラとめくって見出しだけ目を通すのも、「新聞を見る」ことだ。新聞が置いてあるのをながめるのもそうだ。つまり、この文は、読み手によって、さまざまな解釈ができることになる。

文章の種類にもよるが、これは実用文(仕事の文章)において、もっとも避けるべきことである。だれが読んでも解釈は同じということが、実用文の条件だからだ。

 

また、曖昧さや多義性を孕んだ表現は、誤解をまねく。さらに、その不親切さから、相手に時間的・精神的なコストを押し付けることになる。

明確に書けないということは、明確に考えられていない証拠である。多義的な文章は、思考の曖昧さをそのまま投影しているにすぎない。整理もせずにことばを並べれば、誰だって「伝えたつもり」という自己満足に終わる。

前後の文脈から推測してもらえばよい、という態度は、書き手の怠慢にすぎない。

 

 

"名詞" 選びも大切

本稿では動詞について書いたが、名詞についても同じことがいえる。

「もの」「こと」といった抽象的な主語は避けるべきである。

「雪は、大気の上空でできる〇〇」の〇〇にはいる言葉は何か───私は、ときどきこんな質問をして、学生を困らせることがある。この質問では、「もの」と答える学生が多いが、これでは不合格と私は判断する。「結晶」という、より明確な言葉があるし、だいたい”大気の上空にできたもの”には雲や雨滴もあって、雪の説明としては、あいまいで不十分だからである。

「もの」は、ひじょうにあいまいな言葉だけに、なんにでもつかえる”便利な”言葉でもある。そのため、文章を書くとき、「もの」を多用する人があるが、「もの」をつかえばつかうほど、その文章はあいまいになってくる。

篠田 義明『通じる文章の技術』(P154)

 

名詞については別稿で論じる。

 

以上。

 

 

参考書籍

篠田 義明『通じる文章の技術』ごま書房(1998年)
中村 明『文章をみがく』NHKブックス(1991年)

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