私は「読書家」ではありません。ただ、本は好きです。ほかの同年代の人と比べると、本につかう時間は多いと思います。
ただ、あたらしい本(新書)を読み漁るというよりは、同じ本───特に古典───を繰り返し読むタイプの読書をします。
目次
乱読と精読
私は精読派です。未知のものを繰り返しよむことによって少しずつ理解します。これは「読書百遍意おのずから通ず」ということばで表現されます。
精読ついては前に書きました。
速読法にかぶれて、1時間で文庫本を一冊読んだなどと喜んでいたり、SNSでは、多読(多くの本を読むこと)をしているひとが賢くみられるようですが、そんなに速く読めるような本は、そもそも読む価値がないのではないでしょうか。
出典:はいはいブログ.「本を読んでもバカのまま人と、そうでない人の読み方の違い。」(2025/6/1)- https://haihaiblog.com/beta-reading/
で、そんな私でしたが、同じ会社の読書家さん───ここでは「乱読派のTさん」とする───と読書談義をしたところ、「乱読もありかもな」と思わされたので、内容を記録します。
古典を自分で発掘する
私「本って古典が最強だと思ってるんですよね。正直、本を読む時間もないし、無駄な本は読みたくないというか。」
Tさん「その気持ちは分かるよ。社会人には時間がないからね。でもね、いま「古典」と呼ばれている本も、出版された当時は「新刊」だったんだよ。」
私「!!?」
Tさん「ぼくは乱読をおススメしている。乱読には自分で古典をさがしにいくという無類の楽しさがある。世の中の評価ではなくて、自分にとって最高の本をみつけることができる。」
私「な、なるほど。古典を自分で発掘するって考えはなかったです。」
Tさん「あと、いまの本も結局は古典を引用している。それを読みやすくしているんだから、効率的には絶対に新書の方がいい。」
私「でも、分かりやす過ぎると浅い理解しかできなくないですか?未知を繰り返し読んで、少しずつ理解を深められるのが本のいいところじゃないですか?」
Tさん「そもそも、読んでも分からない、は”本の敗北”だと思っている。たしかに、繰り返し読むことは大事だ、だけどそれは『読み方』のひとつだと思う。」
───こんな話をしました。どうやら私はセカンダリーだったようです。「古典になる本」を発掘する側、プライマリーではなかったと。
ちなみに、『知的文章術』には「自分の感心した文章」についてこう書かれています。
自分の感心した文章があったら、一度だけでやめないで、何度も何度も読んでみる。こういう文章が書きたいと思いながら、読む。何度も読んでいれば、意味などどうでもよくなってくる。気にしなくても、何となくわかったという気がする。まさに「読書百遍、意自ら通ず」である。
こうして何度もくりかえし読まれた文章は、その人にとっての「名文」である。人が何と言おうと、これが名文なりとしてよろしい。
出典:外山 滋比古『日本語の絶対語感』大和書房(2015年)
以前は「ふーん、なんかかっこいいな」程度にしか思っていなかったのですが、その人にとっての「名文」である。人が何と言おうと、これが名文なりとしてよろしい。というのは、なかなかに真理なのかもしれません。
じっさいに本屋さんにて
───ということで、「俺も古典を発掘するぞ!」という気持ちで本屋さんにきました。
「おや?…おやおや?」
まず、ふだんと景色がぜんぜん違います。
はじめて童貞を卒業したときの「今日から俺は…!」という感覚くらい違います。どんな本も、こんなテーマ見たことないな、どんな人が書いたんだろう、といった興味がわきます。
「楽しいかもしれない。」
Tさんから乱読のコツを教わったので、やってみることにします。
基本は「積み読」らしいです。気になった本を片っ端から積むのです。ただし、ただ読みたいものリストにいれるのではありません。じっさいに購入して、物理的に積んでおくのです。
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新書ではありませんが、いままで敬遠していた本も含め、気になっていた本たちを買ってきました。私がこれまで「いかにもなタイトルやな」と思ってた本たちです。
※「伝え方が9割」は①がなかったので、②にしました。
これを「積んで」おくらしいのですが、じゃあいつ読むのかという話になります。カンタンで、なにか本を読んだときに、それに関連する本を「積んで」いる本から選んで読むそうです。
最近読み終わったのは───安達 裕哉 著『頭のいい人が話す前に考えていること』です。
───ほむ。買ってきた本たちのなかに関連しそうなものがありますね。
乱読、やってみますか。
かきたいことは書けたので、続きは気が向いたら。
以上です。