おもしろい人生を送るにはどうしたらいいか?
───ひとの永遠のテーマです。おのおのに答えがあるでしょう。
もちろん、私にも「これだろ」という回答があります。
私が思う、おもしろい人生を送る方法。それは、おもしろい文章を書く方法と同じだと思っています。で、それが「階段を上るときは、段数を数える」そんな生き方をする、というものです。
目次
日常の「気づき」
おもしろい記事を書くためには、日常での「気づき」が大事です。
これは、テキストサイト管理人という肩書きをもっている、patoさんというかたの次の記事を読んで、そう考えるようになりました。
Books&Apps.「新幹線は山側にしか座らない」(2023/02/20)
この記事の中で、patoさんは「どうしたらpatoさんみたいに人の心を揺さぶるような上手な文章を書けるんだろうって、ずっと疑問で、その秘訣を聞きたかったんです」という質問に対して、このように回答しています。
「僕は“文章が上手”という状態はよく分からないし、自分がそうだとは思わない。けれども、面白い文章を書くなあ、という人は例外なく“気づき方と切り取り方が上手い”と思う」
(…)
「面白い文章だなあというものはだいたい、この切り取りが上手い。みんな見てるものは一緒だけど、そこから何を取り出すかで力量の差がでる」
私はこの「気づき」と「切り取り」という表現が大好きなんです。
大学生活の終わり頃、おもしろい文章を書いて世の中に発信したいと思いはじめました。その思いを抱えたまま社会人になり、実際にブログをはじめてみました。
ところが、社会人生活は想像以上に忙しく、思っていた以上に変化がありません。朝起きて仕事に行き、夜にはくたくたになって帰ってくる。そんな毎日の繰り返しです。「これは珍しい」「これはおもしろい」と思えることを書き続けるのは、とても難しいことでした。
そんなとき、この記事を読んで、「なにか面白いことを書くには、ふだんの生活のなかで見つける努力をしなければならない」という答えをもらったような気がしたのです。
階段を何段上ったか?
つい先日、この「気づき」のバケモノみたいなものを見つけました。それが、書籍『みんなが読みたがる文章』に書いてある、この内容です。少し長くなりますが引用します。
フランス文壇において『ボヴァリー夫人』で有名なギュスターヴ・フローベールのところに、小説家になりたいという青年が訪ねました。そのときフローベールは小説について何も語らず、「来るときに階段を何段上ったか?」と青年に尋ねました。
青年が分かりませんと答えると、フローベールは「君は小説家になれない」と言ったのです。負けん気を起こした青年は、階段を数えに行きました。
「26段です」
青年が答えると、「7段目で何を発見したか?」とフローベールはまた尋ねました。
青年はふたたび確認しに行くと、7段目の釘が取れていました。
その次にフローベールはどんな音がしたかを尋ねました。
青年はふたたび階段を踏みに行きました。
(…)
フローベールは、描写のために周囲の事物に関心をもち、観察しなければならないことを、モーパッサンに気づかせました。
出典:ナムグン・ヨンフン『みんなが読みたがる文章』P187
「関心と観察が描写力を高める」という節で、その重要性を書いたエピソードです。
これを読んだとき、私は「そんなに細かいところまで見てなかったな」と思いました。「なるほど、認識が甘かったかも」と思いました。まぁ「いや、ふつう数えないだろ」とも思いましたが。
どうでしょう。これに「ふつう数えないだろ」といっているようでは、2流なのでしょうか?それとも、1流でも「さすがにそこまでは」なのでしょうか?それはすこし気になるところです。
しかし、この話が極端なものだったとしても言いたいことは分かります。これが「みんな見てるものは一緒だけど、そこから何を取り出すかで力量の差がでる」ということなのでしょう。
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ちなみに、これは問うている能力が違うのですが、思考力をみるときにも有効な質問だそうです。この質問に回答できるようになりてぇ。オラも強くなりてぇ。
ダイアモンドオンライン.「「ここまで階段を何段昇った?」稀代の実業家が、入社面接で唐突な質問をよくしたワケ」(2024/05/02)- https://diamond.jp/articles/-/341245
人生の伏線を作る
また、「気づき」の前には、ちいさな発見があるものです。この記事にも、過去に見つけ、あたためておいた3つの発見を使っています。それらが集まって、この「気づき」になっています。
- Patoさんの記事
- 書籍『みんなが読みたがる文章』
- ダイヤモンドオンラインの記事
───このように、「あー、これどこかで使えそうだナー」という発見はメモをしておいて、あたらしい発見があったときに関連するものをつなぎ合わせていくのです。そうやって材料が揃ったときに、そこに自分の意見を乗せてみます。
意見を乗せるとき、思考の時間をおおく取ると、「発見」が「気づき」に、「気づき」が「意見」(記事)になります。どんどんどんどん大きくなっていくのです。そうやって練られた記事というのが、おもしろい記事になるのだと考えています。
こうやって生きてると、たまーにキツネが憑いたかのようにおもしろいものが書けることがあるのです。湖が透きとおるように、今まで溜めてきた「気づき」がパチッとつながるときがあります。
ブログは人生の伏線とはよく言ったものです。
一生懸命に生きていく
そういう生き方がいいとか、悪いとか、そういう話ではありません。
ただ、気づいて切り取ることをしていると、一生懸命に生きている気がするのです。(決して、それをしていない人が一生懸命に生きていないわけでもありません。)
pato さんも、記事のなかでこのように述べています。
「それは秘密。ただまあ、そうやって決めつけて新幹線に乗っていると色々な感情に気が付くよ。それを切り取る。それはなんだか一生懸命に生きている感じがする」
ここまで、それっぽいことを書いてきましたが、私の思う「おもしろい人生を送る方法」もまだカリモノです。ただ、ここから思考して、練って、また思考して、練り上げます。そういう風に生きていると、きっと後悔のない人生にはなるんだろうなと信じています。
以上です。