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本を読んでもバカのまま人と、そうでない人の読み方の違い。

本の読み方にはふたつあるようです。

ひとつは「世界を広くしない、データをあつめるだけの意味のない読み方」で、この記事ではアルファ読みといいます。

もうひとつは「世界を広くする、知見をひろめ、こころを大きくする読み方」で、アルファ読みに対してベータ読みといいます。

 

アルファ読みについて

アルファ読みは、「すでに知っていることを読む」読み方です。アルファ読みしかできない人は、本を読んでも新しい世界が広がることはありません。(「本当に本を読んだ」ともいえないと思います。)

 

例えば、文字に書かれていることを知っているとき。

「さいた、さいた、さくらがさいた」という文章なら、小学一年生でも、「桜が咲いた」ことがすぐに理解できますし、そのイメージもできます。これが「既知の読み」です。

 

 

ベータ読みについて

ベータ読みは、「書いてあることが、読んでみてもわからない」───未知のことがらの文章を読む読み方です。

ある小学六年生が、「ことばと、それを表すものごとの間には、切っても切れぬ結びつきはない」という文章を読んだとします。こどもにはまったく意味がわからないでしょう。

それは、文章の内容が理解をこえているからです。

 

自分の知らないことを活字から読みとるためには、ベータ読みが必要です。すでに知っていることを読む「アルファ読み」で読もうとしても、わかるはずがないのです。

ベータ読みができれば、わからないことを読んでも、理解することができます。知見をひろめ、こころを大きくしていくことができます。ベータ読みができてこそ本当に本が読める、ということなのです。

 

 

ベータ読みは難しい

いわゆる「教育を受けた」といわれる人たちにも、これまで一度も本当のベータ読みをしたことがないという人は、かなり多くいるようです。

読み物でも、ゴシップや物語、小説ならわかる。新聞でも、社会面ならわかるけれども、社説や論説は、どうもおもしろくない、などというタイプの人です。

ベータ読みができないため、読んでもわからないのです。

「文字を読むことができる」と、「文章を読むことができる」は別モノのようです。アルファ読みしかできなければ半読者になってしまいます。知っていることは読めても、知らないことはむずかしいとか、よくわからないといって、投げ出してしまうからです。

 

なぜか。

ベータ読みをするには、思考力を使わなくてはならないからです。想像力をはたらかせ、わからないことがあっても、自分の頭を使って解釈しなければいけません。

でもそれは面倒くさいし、つかれる。そういう文章に慣れているか、「無理やりにでも読む」ような訓練をしていないとできません。

どうにか自分なりに分かった、というところまで、何度も何度も、思考力を使って読み、未知を読み取るのです。これが本当の読みです。

 

また、アルファ読みとベータ読みは、ひとつの階段で結ばれているのではありません。アルファ読みの階段をひとつひとつ上がっていけば、自然にベータ読みができるようになるというものではないのです。

アルファ読みがよくできたとしても、ベータ読みができるとは限りません。

 

 

ベータ読みができるようになるために

では、ベータ読みができるようになるにはどうすればいいのでしょう。未知を読む訓練をするしかありません。そのためには、理解できない本にチャレンジすることです。

最初から難易度の高いものを選んでしまって構いません。古典がオススメです。

 

「たたみの上の水練」ということばがあります。「いくらたたみの上で水泳の練習をしても、水のなかへ入って泳げるようにはならない」───実際の行動や経験をともわない、役にたたない訓練をあらわした慣用句です。

いくら、ベータ読みをしようとしても、実際にベータ読みをしなくては話になりません。いつまでもたたみの上で泳ぐマネをしていてはいけません。いっそのこと、思い切って水に飛びこむことが有効になるのです。

 

そんなこと単純な話なの?と思われるかもしれませんが、この「無理やり読んでみる」という方法、世界的にもスタンダードな方法だったそうです。

江戸時代に行なわれていた読みの教育に、漢文の素読(そどく)というものがあります。素読は今でいう音読にあたります。ただし、意味をいっさい考えずに、ただ声にだして読みます。

まったく知らない漢文を無理やり読ませる。そして、意味の説明はしない。そんな乱暴なことをさせて、いったいなんの役にたつのか。いまなら、そのような批判が聞こえてきそうです。

事実、この教育法には、いまの学校教育では教わらないところを、しっかり教える効果があったのです。

アルファ読みをすっ飛ばして、はじめからベータ読みへ飛び込ませる───たたみの上から水に飛びこませる───のです。素読をしていた昔の人は、ほとんどみな、知らずしらずのうちにベータ読みができるようになっていたと思われます。

 

素読は日本だけの文化ではありません。

欧米、とくにヨーロッパにおいても、古くは、ラテン語によって、素読に近いことがずっと行なわれていました。本を読むことを学ぶときに、もっとも有効なのが、この方法だということを、ほかの国の人々も経験的に知っていたのかもしれません。

 

ヨーロッパでは、母子で聖書を読むことを習慣にしている家庭があります。ベータ読みの教育だと考えることができます。

私の妻はベータ読みができます。こどもの頃から親の宗派の関係で「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」を音読させられていたというのです。こどもの頃からの訓練のたまものだと思います。

 

 

ベータ読みこそ本当の読書

「なぜベータ読みができないのか?」には、そもそもベータ読みを知らない、もしくは「やろうとしていない」のも理由のひとつでしょう。ベータ読みをすると、1冊の本を読み終えるのに時間がかかるため、忙しい現代人には抵抗があるのかもしれません。

速読法にかぶれて、1時間で文庫本を一冊読んだなどと喜んでいたり、SNSでは、多読(多くの本を読むこと)をしているひとが賢くみられるようですが、そんなに速く読めるような本は、そもそも読む価値がないのではないでしょうか。

 

ベータ読みをすると、どうしても時間がかかりますし、同じ本を何度も何度もよむことになります。それが普通です。

私は、読書の価値は、それにかける時間にほぼ比例すると思っています。自分のしっていることを確かめたり、情報量をふやすために斜め読みするようなアルファ読みは、データを集めるという以外には、ほとんど意味がありません。

しっかりした読書は多読ではありません。じっくり読むことです。

 

一度で理解しようというのも思い上がりです。二度読み、三度読み、それでも足りなくて、また読み返す。そういうことができるのが、本当の本であり、そういう本を読むことが、本当の読書だと思います。

 

くりかえし読むことで、未知が理解できるようになるという奇跡がおこることがあります。昔の人は、それを「読書百遍意おのずから通ず」ということばで表現しました。

中国には「韋編三絶」(いへんさんぜつ)ということばがあります。孔子が晩年「易経」を好んで読み、なんどもくりかえし読んだために、綴じた革ひもが三度も切れた、というのです。一冊の本をそれくらい読めば、ふかく理解することができるにちがいありません。

 

 

本選びは大切

「図書館の本を全部よんでしまった」などという話をたまに聞きます。20代までならそれもよいでしょう。好き嫌いをしないというのも、大切なことです。

しかし、歳も30を超えると、本をむやみに、手当たりしだい読むことはできなくなるはずです。すくなくとも私は、わずかでよいから読むに値する本を読みたいと思っています。

 

読書百遍、ボロボロになるまで読み込むということは現代的ではありませんが、そういう本を二冊か三冊つくれば賢くなることができます。

何度も読み返した本が五冊もあれば、本が読めるといってよいでしょう。それが同じ分野の本であれば、その分野について語ることもできるようにもなります。

 

もっとも、いまのように、書物があふれている時代には、本当に読むに値する本にめぐりあうのは、簡単なことではないのかもしれませんが。

 

以上です。

 

 

参考書籍

外山 滋比古『日本語の絶対語感』大和書房(2015年)

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