読む側は「書いた側が忙しかった」なんて心底どうでもいいです。
記事がつまらなければすぐに離れるだけです。
究極的には、「見られたか?」「読まれたか?」という結果がすべてです。
─── それが発信者がうける評価だと、私は思います。
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私はたまに、Qiita というプラットフォームに記事を投稿しています。Qiita に投稿した記事は、基本的にはパブリックに公開され、ほかのひとに読まれ、拡散されます。
Qiita はそれなりのユーザー数を持っているようで、おもしろい記事を書けば、オーディエンスによって記事がプラットフォームの「外」にまで共有・拡散されます。「はてなブックマーク」にエントリーされれば PV 数が数十万にもブチ上がるため、書きがいがありますね。
─── で、そんな Qiita は、毎年のイベントとして豪華な景品が用意されたアドベントカレンダー(記事投稿キャンペーン)を開催しています。

あまり詳細は書きませんが、ふたつ狙いたいプレゼントがあります:
まずは、(ひとによりますが)大当たりの iPad です。これは、あらかじめ指定されたテーマで書かれた記事の中から、優秀賞に選ばれるともらえます。
次に、完走賞と呼ばれる公式ノベルティグッズです、アドベントカレンダーの日数とおなじ、25 記事以上を期間中に投稿したひと全員がもらえます。
じつは私、去年はけっこう頑張りまして、このふたつのプレゼントをもらっています。(終わった 26 日に気が抜けたのかコロナを疾患してしまい、お正月がなくなりましたが。)
対し、今年はあまりにも仕事が忙しく、結果を出すことができませんでした、
今年もね、サラッと iPad をかっさらおうと思っていたワケですよ。
でも、仕事が忙しく、書く時間もとれず、テーマも自分とあうものがなく、なんか全然ダメでした。記事を 3 つ書かせていただいたのですが、「いいね」がこれっぽっちもつかず、PV 数も上がらず、通知欄は閑古鳥がないていました。
という、こんなクソみたいな「楽屋話」を妻にしてしまいました。
- 仕事が忙しかった
- 時間がとれなかった
- 自分の得意分野じゃなかった
これ、全部「しらねーよ(笑)」ですよね。
しかも、なんかいやーな、それでいて恥ずかしい気持ちになりません?なんとも聞いてられない、見苦しいものだと思うんですよ。クオリティの低さを忙しさのせいにしても、オーディエンスは冷めるだけです。
もし、「楽屋話」が記事にふくまれていたら最悪です。
本多勝一氏は『日本語の作文技術』でこんなことを述べておられる。
ひとつ、これ以上考えられないほどの最悪の書き出しを挙げておきたい。それは、編集者から注文されたことを冒頭でノロケる方法である。「○○○について書け、という注文である」とか「編集者から標題のようなテーマを依頼された」とかいったことを冒頭に書く。いったいこれが、読者にとってどんなプラスになるのだろうか。
注文されようがされまいが、書くことに決めた以上は全力投球すればよろしい。勝負は書かれた結果だけである。こんな余分なことから書き出す心理には、見えすいた二つの傲慢がひそんでいる。第一は、原稿を依頼されるほどオレはエライんだぞ、という貧困なる精神。(…)第二は、それほど出来のよい文章が書けなくても、責任は注文者にあることを暗に読者に訴える責任回避。これはしかし無駄なことで、何の弁解にもならない。(…)なにしろいったん書かれたものについては一切の弁解が通じないのだから、どんな条件であれ最善をつくすしか方法はない。
出典:本多勝一『日本語の作文技術』P257
同感です。
楽屋話がもの書きとしてのエチケットに違反していることはたしかです。楽屋落ちは、読者の視点を話のスジからそらせます。真面目にスジに乗ろうとしてくれている読者に対して失礼です。
書いたあとにダラダラと言い訳をくべるのもよくない。読者への裏切りともいえるでしょう。その記事を「おもしろい」と思ってくれていたひとのガッカリ感は計り知れません。
私が記事が書けなかったのはサボっていたからで、
出した記事が伸びなかったのは、記事がつまらなかったからです。
どうやら、楽屋話というものは ”頼まれないでもカットしたくなる” ものだといいます。「なんだ、こんなつまらないもの」という風に見えてくるとのことです。私もそう思えるようになったとき、発信者としてひとつ成長したと言えるのかもしれません。
以上。
参考書籍
本田 勝一『日本語の作文技術』朝日文庫(1982年)
木村 泉『ワープロ作文技術』岩波新書(1993年)