雑記

「ひとが書いた風にする」で、努力の方向だいじょぶそ?

AI っぽい文章を、ひとが書いた風にしようと必死なひとたちがいる。

努力の方向は本当にそれでいいのかと心配になる。

 

おれは、(文章に限らず)AI を使うひとをあまり肯定したくない。なぜかというと、AI を使う理由には「楽をしたい」以外ない、と思っているからだ。

「AI のほうがうまく作れるから」というひとは、そもそも一線にはいない。60点のものを楽に大量生産したい。そういうひとが AI を使っていると決め込んでいる。

それで「楽にてっとり早く済ませたいんだな」と、嫌味が口をついて出てしまう。

 

そもそも、おれは AI っぽい文章の、なにが悪いのかわからない。

AI が書く文章には良いところがいっぱいある。

文量が短くまとめられており、多義性をもたない。

文法が守られているため、違和感なく読み進められる。

誤読を防ぐためにも、実用文は AI で書いたほうがいいとさえ思っている。

 

むしろ、ひとが書いて意見や感情が入り込むほうが問題だろう。

あいまい表現、推量も文章の格を落とす。

 

よく「AI っぽい」といわれる文章の特徴、文章がワンパターンであること(リズムが悪い)も、べつに悪文の資格にはならない。

実用文では、何十ページにもわたる論文でも、数行で終わるビジネス文書でも、基本的な考え方はおなじなのだから。

全体の構成でも「起承転結」の形はとらない。いってみれば「序破急」(序文、本文、結論)の三部構成をとる。「転」がないのだから、単調になるのは当たり前だ。

 

まぁ、それ以前に「AI が書いた文章」と「ひとが書いた文章」は、そもそも良し悪しの比較ができないじゃないか ─── とも思う。

AI の書いた文章は、ひとが書いたそれとまったく性質が異なる。

サッカーと野球を単純に比較できないのと同じだ。

そんな比較もできないものを、無理やり修正しようとしても、サッカーはどう頑張っても野球にはならない。フィールドのカタチも、ボールの大きさもまるで違うじゃないか。

なんとかサッカーをアメフトくらいには修正できるかもしれない。超超超遠目ではなんとなく似ているかもしれないが、よくみると原型がぶち壊れているのがわかる。

ごまかせるのは、そもそも「サッカーを知らないひと」くらいだ。

 

だから、なぜみんなが、AI っぽい文章を、無理やりひとの文に寄せようとしているのか理解できずにいる。

60点の AI 文章を 100点にするのはメチャクチャ大変だ。

最初から100点の文章を手で書けばいいんじゃないのか?

 

こういうと「スキルがないから書けない」「書き方を知らないから難しい」「AI のほうがうまく書いてくれる」というひとがでてくる。

おれが感じている違和感はここだ。

なぜ、AI 文章を人間風にする努力はできるのに、

手で書けるようになるための努力をしないのか。

それこそ、文章の書き方なんてものは、いくらでも参考になる書籍がある。「タイパ・コスパの現代は、時間をかけて学ぶことを嫌うよな」と、これまた嫌味をいいたくなる。

 

「そっちのほうが早いんだよ」「効率がいいんだよ」というひともいる。

AI に出してもらった文章を、そのまま使うひとにとっては、たしかに「効率がいい」のかもしれない。おそらく推敲もしないのだろう。

あるいは、平準化された文章しか書かないひとなのかもしれない。

AI に入れると内容が一般化して丸くなる。どこかで聞いたことのあるアイデアが、すでに腐った紋切型で書かれていて、いかにも手抜きという感じがする。

……。ダメだな、嫌味しか出てこない。

 

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とはいえ、日本語は難しすぎる。

「AI で書かせたくなるのも、仕方ないよな」と、最近は思えるようになった。

 

人間は、要素を増やして照応を乱してしまう。

私にとって切手は、一種の絵の鑑賞のようなものであり、いろいろな切手をじっくり見ていると、なんとなく楽しくなってくる。

これはそれほど長文ではないにもかかわらず、「切手」を主語にする前半と、書かれてはいないが「私」を主語にする後半とで、それぞれ別なことを言っている。

 

人間は、ねじれた文章を書いてしまう。

SNS でコミュニケーション トラブルが発生するたび、メディアでは、ネット世界における一般常識、いわゆるネチケットという概念を知っておく必要がある。

この文では、「メディアでは」に対する受け手が欠落している。

述語と組み合わせてみても、「メディアでは~知っておく必要がある」といった具合に、文内に適切な受け手がなくて宙に浮いている。

 

人間は、視点もねじってしまう。

先生は、お忙しいところ丁寧にわたしの作文をご覧くださったうえ、思いもかけない賞賛のお言葉まで頂戴したことはいまでも忘れられない。

前半は「先生はご覧くださった」と先生の行為を述べているにもかかわらず、後半は「お言葉まで頂戴した」というふうに自分の視点を述べている。

「先生」を主語に読みすすめていた読者は戸惑う。

 

日本語は難しすぎる。

こういう基礎的なところが解消されるだけでも、文章は見た目がよくなる。

 

「連休2日目の日曜日の今日は」という書き方がふつうになっているひとは、AI が書いた「今日は日曜です。連休の2日目です。」に感動する。

「青いベレーをかぶってハゲを隠しあごひげを生やしたずんぐりむっくりしたみすぼらしい紳士」と平気で書くひとも、「ある紳士がいた」という文を先行させられて納得する。

「私は北国に生まれた。しかし、雪はそんなに多くない。だが、今年は珍しくかなり積もった。」に対して、なんとなく読みにくいけど、何が悪いのかわからないというひともいる。

 

間違いに気がつけないひとは、AI が書いた文章の明瞭さに驚くしかない。

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