最近、読書術の本を好んで読んでいる。
「賢くなるための読み方」
「読書百遍神話」
「速読は悪なのか」
───こんな内容の本である。どの本も論理的に書かれているので、すべて正しくみえる。
私はすぐに影響され、こういうことを書いてしまう。
読書の価値は、それにかける時間にほぼ比例すると思っています。自分のしっていることを確かめたり、情報量をふやすために斜め読みするようなアルファ読みは、データを集めるという以外には、ほとんど意味がありません。
出典:「本を読んでもバカのまま人と、そうでない人の読み方の違い。」(2025/6/1)- https://haihaiblog.com/beta-reading/
目次
本に読まれる
本を1冊読み終えると語りたくなる。「なんて素晴らしい考え方なんだ!俺もこの考え方で生きていこう!」と本気で思う。
この時点では、「もしこれが間違った考え方だったらどうしよう」とか、「これは本当に正しいことなのだろうか?」とか、そういうことは思わない。不思議と妄信している。
その勢いのまま、ブログに想いをおこす。
本のことばを借りただけのクセで、賢くなったようで、自分で咀嚼もしきれぬうちに引用して「うむうむ、こりゃ名文じゃわい」と満足する。
───それで、数日後に別の本を読んだとき、あるいは記事を読みなおしたとき、「なんか書いたけど違うかったかもなー、なんでこんなこと書いちゃったんだろう。」と思う。
そういうとき、とたんに前に書いた記事が恥ずかしくなる。「こいつ浅いな、本に読まれてるな。それで知的活動をしているんだと誤解してるんじゃないか?」と、自分に対して思う。
まぁ、じっさいはそこまで卑屈ではないのだが。
考え方はアップデートされる
ところで、最近『乱読のセレンディピティ』を読み、外山滋比古 氏 の「読書に対する考え方」の変化に驚いた。
どう変化していたか。
2015年の時点では、1冊の本をくりかえりくりかえし読むことが大事だと説いていた。
しっかりした読書は、たんなる多読ではありません。たんなる精読でもありません。じっくり、なめるようにして読むものです。一度でわかってしまおうというのも、思い上がりです。二度読み、三度読み、それでは足りなくて、二度三度と読み返す。そういうことができるのが、本当の本であり、そういう本を読むのが、本当の読書なのです。
出典:外山滋比古 『日本語の絶対語感』P82
ところが、その1年後。2016年の本ではこのようなことを述べている。
本は読み捨てでかまわない。
本に執着するのは知的ではない。ノートをとるのも、一般に考えられているほどの価値はない。
本を読んだら、忘れるにまかせる。大事なことをノートにしておこう、というのは欲張りである。心に刻まれないことをいくら記録しておいても何の足しにもならない。
出典:外山滋比古 『乱読のセレンディピティ』P45
今度は「1冊の本を読み過ぎるのはよくないかもしれない」と言いだした。
(誤解がないように書いておくが、この本にも、精読が有効であることは書かれている。『乱読のセレンディピティ』には「乱読もよいものだ」───ということが書かれている。)
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───で、この変化に驚いたは驚いたのだが、同時に「まぁそういうこともあるよな」とも思えた。考え方はそのときの環境、時代、まわりのひとから大きな影響を受けるのだから。
外山 氏は「本があふれるいまの時代、もっともおもしろい読書法は乱読である。」と書いている。そのようにアップデートしただけのことだ。ひとは誰でも、いつからでもアップデートできる。
それがあたりまえ
ひとの思考は変化する、という当たり前のことを忘れてた。それで、いままでは過去の自分に、「はずかしさ」を感じることがあった。そして、恥ずかしい思いをするのが嫌で、それが恐れになっていた。
アウトプットをしてしまうと、思考が変わったときに友人・知人から「おまえ、前と言ってること違うやん」と笑われてしまうかもしれない。イジワルなひとが多い SNS では、あげあしを差し出すようなもので、「ようやく間違いに気がついたんですね(笑)」などと嫌味を吐かれてしまうかもしれない。
そういうことを恐れていたように思う。
けれど、「気にする必要はないのだな」と思えた。
今の自分が「どう感じたか」「どう考えたか」は、自分にとって確かなものだ。自分の “その時点での等身大の記録" であり、否定されるべきものではない。
そもそも、知識というのは一度インプットして終わりではない。以前の理解がくつがえされたり、視野が広がったりするのがあたりまえだ。その変化こそが、学びの証であり、成長の足跡でもある。
だから、読後の感想や気づきを、その時点の言葉で書き記すことには意味がある。記録があると、後になってみかえすこともできる。自分で「うわ、こいつ浅いな」と恥ずかしくなることもあるかもしれないが、それは確かに自分がアップデートできている証拠になる。
他人に嫌味を言われてしまうのは怖い。今の時代ではアウトプットは勇気のいることだと思う。アウトプットするのにいろいろと「準備」をしたい気持ちも分かる。
けれど、そうやってアウトプットをためらっていては、思考も記憶も曖昧なまま過ぎてしまう。もしかしたら、そのあいだには「アップデートされたこと」すら気が付かないかもしれない。それもいずれアップデートされる。また見逃す。
どうせ高級ではないのだ
誰かがブログは人生の伏線と言った。
「言い得て妙だな」と思った。
ブログにこそ、このような思考を記録するのがよいと思う。「ブログである必要がない。SNSや、note などのプラットフォームに書けばいい」というひともいるが、私はブログに書くべきだと思う。広く見られる場所に書くのはやはり勇気がいる。
これは私の印象であるが、文章書きは臆病だ。
たった一度の批判が、(それが "送り手" にとって冗談だったとしても)個性をつぶすことになりかねない。まずは、のびのびした文章を書けばよい。興味のあるひとだけが読んでくれる。
個人ブログがよろしい。
どうせ高級な文章ではないのだ。
私も「いまこの瞬間の思考を言葉にしていこう」───そう思った。
以上。
参考書籍
外山 滋比古『日本語の絶対語感』大和書房(2015年)
外山 滋比古『乱読のセレンディピティ』扶桑社文庫(2016年)