いまの社会はいそがしい。同じことなら手短にしてくれという注文をうける。長い文章よりは、短い文章が好まれる。
ただ、それは読む側の都合であって、書く方にしてみれば、短文というのは実にやっかいなものである。事実のみを短くキリリと書くのは相当にむずかしい。
短い文が書けてはじめて、「ものが書ける」と言えるのではないかと思う。
───『知的文章術』の「飾りことば」に関する記述を読んで、その重要性をあらためて認識した。すこし長いが引用したい。
中学生に聞いてみる。
A 白い
B よりいっそう白い
C もっとも白い
のうち、どれがいちばん白いだろうか。(…)
ここに三枚の紙があるとする。どれもうすく汚れている。そのうちの一枚をさして、これが「もっとも白い」と言ったとすると、この「もっとも白い」というのは、”三枚のうちでは”ということで、どこへ行っても「白い」と言って通用するのではない。
それに対して、Aの「白い」は百パーセント白い。どこへ出しても白いのである。絶対的だ。これがいちばん白いことになる。
「よりいっそう」とか「もっとも」とかをつけると、それだけ割引きされてしまう。「たいへん」とか「すばらしく」といったことばを添えても、同じように白さを強めたことにならず、かえって、弱めることになりかねない。余計なことばは使わないことだ。
出典:外山 滋比古『知的文章術』P89
以下に、かなり極端な例をあげる。
豊かな人間性とすぐれた個性をそなえたりっぱな職員になろうと新たな希望をもって、新しい職場へ移りました。
この文章は、安くされ過ぎている。「豊かな」「すぐれた」「りっぱな」「新たな」「新しい」もの装飾が浮いているからだ。思い切ってはずしてしまうと、「個性をもった職員になろうという希望をもって新しい職場へ移りました」とすっきりする。なるべく削る。贅肉がおちる。
「形容詞や副詞を乱用しない」
これが文章の心得で、飾りたくなるのは幼いのだと思う。こういう飾りがついているために、文章は、安ものの装飾品をつけたひとのような感じになる。なくてもよいものは、つけてはいけない。
飾りを少なくすることが、表現を強め、ことばの美しさを魅せる。
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さきほど「かなり極端な例だが」と書いた。この「かなり」はつけてはいけない飾りだろう。
推敲のタイミングで見つかった。これは私が無意識に書いた「逃げ道」だ。「そう思わないひともいるよな」という恐れが「かなり」という飾りを招いた。やれ、油断をすればすぐにこうなる。
以上。
参考書籍
外山 滋比古『知的文章術』大和書房(2024年)